微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

君子は諸を己に求む(論語、衛霊公第十五)

ノーベル賞を受賞した
山中伸弥教授は、
「悪いことが起こったときは
『身から出たサビ』、
つまり自分のせいと考え、
良いことが起こったときは
『おかげさま』と思う」と月刊到知で語っている。

君子は諸を己に求むも
これを参考に解釈したい。


子曰わく、君子は諸を己に求む。小人は諸を人に求む。(衛霊公第十五・仮名論語236頁)
孔子先生が言われました。
「君子は何か悪いことが起こったときは、その原因を自分に求める。小人は他人に求める」
 
 
子曰わく、射は君子に似たる有り。諸を正鵠に失いて反って諸を其の身に求む。(中庸第十四章・仮名中庸22頁)
孔子先生が言われました。
「弓術は君子に似ている。的に正しく当たらないときに、その原因を省みて自分自身に求めるからである」

心で見なくちゃ

サン=テグジュペリ
星の王子さま」の中で
王子は狐に次のように教わった。

「心で見なくちゃ、
物事はよく見えないってことさ。
大切なことは目に見えないんだよ」と。

大学にも
心を正しくすることが物事を本質から判断すること(
)に繋がると説かれている。

心を正しくするのは
大切なことを見える(判断できる)ようにするためなのである。


古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは物を格すに在り。(大学・仮名大学2頁)
昔、自らの徳を広く天下に発現しようとした者は、まず自らの国を治めた。自らの国を治めようとした者は、まず自らの家を整えた。自らの家を整えようとした者は、まず自らの身を修めた。自らの身を修めようとした者は、まず自らの心を正しくした。自らの心を正しくしようとした者は、まず自らの感情を誠にした。自らの感情を誠にしようとした者は、まず自らの知を極めた。知を極めるとは、物事の本質を突き詰めることである

一所懸命に行えば天命が分かる

力(つと)め行うは仁に近い、とある。


子曰わく、学を好むは知に近く、力め行うは仁に近く、恥を知るは勇に近し。(中庸第二十章・仮名中庸40頁)
孔子先生は言われました。
「学ぶことを好むのは知に近く、努力して行うことは仁に近く、恥を知ることは勇に近い」


一所懸命に努力して行うことは、仁に近いということである。

仁とは人の道であり、
人の道は天命を追求することにある。

ご縁があって置かれた環境で、
10回、100回、1000回と
一所懸命に努力して行えば、
必ず自分の徳(天命)が明らかになるということを言っているのではないかと思うのである。


人一たびして之を能くすれば、己之を百たびし、人十たびして之を能くすれば、己之を千たびす。果して此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強し。(中庸第二十章・仮名中庸50頁)
人が一回で良くできるとすれば、自分は百回やってみる。人が十回で良くできるとすれば、自分は千回やってみる。その結果道を修得できれば、愚かな者でも必ず聡明になり、柔弱な者でも必ず強い 。

礼の和を用て貴しと為す(論語、学而第一⑫)

礼とは、和を調節するもの。

和とは、家族が和やかに楽しむ様子。

家族が和やかに楽しむ、
これこそが孔子が理想とした社会の姿、
すなわち仁なのではないだろうか?
礼、和と仁


有子曰わく、礼の和を用て貴しと為すは、先王の道も斯を美と為す。小大之に由れば、行われざる所あり。和を知りて和すれども礼を以て之を節せざれば、亦行うべからざるなり。(学而第一・仮名論語7頁)
有先生が言いました。
「礼において和を貴いとするのは、私一人の考えではない。古代の聖王たちもそれを美しいことと考えた。だからといって和だけに頼ると、うまく行かないことがある。和の貴いことを知って、和しても礼をもって調節しないと、うまく行かないのである」

忠孝は服従でない

忠孝は決して服従ではない。

このことは、次の章句から明らかである。


曽子曰わく、夫の慈愛恭敬、親を安んじ名を揚ぐるがごときは、則ち命を聞けり。敢て問う、子父の令に従うを、考と言うべきか。子曰わく、是何の言ぞや、。是何の言ぞや。昔者、天子に争臣七人有れば、無道と雖も天下を失わず。諸侯に争臣五人有れば、無道と雖も其の国を失わず。大夫に争臣三人有れば、無道と雖も其の家を失わず。士に争友有れば、則ち身令名を離れず。父に争子有れば、則ち身不義に陥らず。故に不義に当れば、則ち子以て父と争わざるべからず。臣以て君と争わざるべからず。故に不義に当れば、則ち之と争う。父の令に従うを又焉んぞ考と為すことを得んや。(孝経・諌諍章第十五・仮名孝経32頁)
曽先生が言いました。
「これまで先生から慈愛や恭敬、親に安心してもらうこと、名を揚げることなどを教えて頂きましたが、敢えて質問致します。子は父の命令に従う、これを考と言うべきでしょうか?」
孔子先生が言われました。
「それは何の言葉だ?それは何の言葉だ?昔、天子に過ちを諫めてくれる臣下(争臣)が七人いれば、天子が非道であっても天下を失うことはなかった。諸侯に争臣五人いれば、その諸侯が非道であっても国を失うことはなかった。大夫に争臣三人いれば、その大夫が非道であっても家を失うことはなかった。士に過ちを諫めてくれる友(争友)がいれば、名声を失うことはなかった。父に過ちを諫めてくれる子(争子)がいれば、道義に外れることはなかった。ゆえに、道義に外れるときは、子は父と争わなければならない。臣下は主君と争わなければならない。ゆえに、道義に外れれば、子は父と、臣下は主君と争うのである。父の命令に従うことをどうして考とすることができるだろうか?」

なぜ言葉を学ぶか?

言葉を学ぶのは
相手のことをもっと理解するため、
すなわち
のためなのである。


孔子曰わく、命を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。(堯曰第二十・仮名論語313頁)
孔子先生が言われました。
「天命を知らなければ、君子の資格は無い。礼を知らなければ、社会に立つことはできない。言葉を知らなければ、人を知ることはできない


唯天下の至誠のみ、能く其の性を尽くすことを為す。能く其の性を尽くせば則ち能く人の性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛す可し。以て天地の化育を賛す可ければ、則ち以て天地と参す可し。(中庸第二十二章・仮名中庸53頁)
天下の
誠(人の道)に至った人のみ、自分の個性・特性を出し尽くすことができる。自分の個性・特性を出し尽くすことができれば、他人の個性・特性をも出し尽くすことができる。他人の個性・特性を出し尽くすことができれば、人間以外万物の個性・特性をも出し尽くすことができる。万物の個性・特性を存分に出し尽くすことができれば、天地が行う万物の感化育成を賛助することができる。天地が行う万物の感化育成を賛助することができれば、天地のはたらきに参画することができる。

徳は純粋にしてゆくもの

文王の徳は純粋であったという。

徳とは純粋にしてゆくものなのだろう。


詩に云わく、維れ天の命、於穆として已まずと。蓋し天の天たる所以を曰うなり。於乎顕ならざらんや、文王の徳の純なると。蓋し文王の文たる所以を曰うなり。純も亦已まざるなり。
詩経には、天の命(原動力)は深遠として終わりが無いとあるが、この深遠として終わりが無いことが天の天たる所以である。純然な文王の徳が顕れないことがあるだろうか。この純然さが文王の文たる所以である。純然もまた終わりが無いのである。