微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

愛情いっぱい受けて育った子どもは…

愛情いっぱい受けて育てた子どもは、
「人の気持ちを思いやれる人に成る」と言われる。

このことは論語にも書いてある。

まず、「孝」という漢字。
「子が親(老)を背負うこと」を示しているとされるが、
「親(老)が子を抱くこと」も示している。

ゆえに「孝」は、
親が子に愛情を注ぐことから始まる。
 
 
(前略)子曰わく、予の不仁なるや。子生まれて三年然る後に父母の懐(ふところ)を免る。夫(そ)れ三年の喪は天下の通喪なり。予や、三年の(そ)の父母に有るか。(陽貨第十七・仮名論語273頁)
弟子の宰我が「親が亡くなったときの喪の期間が三年というのは長すぎるから一年に短縮しよう」と言い出しました。
宰我が退出した後、孔子先生が言われました。
「予(宰我の名)は不仁だ。子どもは生まれて三年でようやく父母の懐を離れるのだよ。三年の喪は世の中の人が誰でもやっている共通の喪なのだ。予(宰我)も三年も父母の懐にいてその愛情を受けたはずなのに、忘れてしまったのだろうか。」
 
 
さらに親が子に愛情を注ぐことは、
親孝行の前提となるだけではない。
他人を思いやること(仁)のできる立派な人間(君子)となる前提ともなる。
 
 
有子曰わく、其(そ)の人と為りや、孝にして上を犯すを好む者は鮮(すく)なし。上を犯すを好まずして乱を作(な)すを好む者は未だ之れ有らざるなり。君子は本を務む、本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か。(学而第一・仮名論語1頁)
弟子の有先生が言われました。
「その人柄が孝弟であれば、目上に逆らう者は少ない。目上に好んで逆らわない者で世の中を乱すことを好む者はいない。君子は本を大事にするのである。本が立てば自ら進むべき道が開けてくるのである。孝弟は仁を成し遂げる本であろうか
 
 
「子どもに愛情を注ぐこと」は
「子どもを慈しむこと」であろうか。
 
 
詩に云(い)わく、穆穆(ぼくぼく)たる文王、於(ああ)緝煕(しゅうき)にして敬止(けいし)すと。人君(じんくん)と為りては仁に止(とど)まり、人臣(じんしん)と為りては敬に止まり、人子(じんし)と為りては孝に止まり、人父(じんぷ)と為りては慈に止まり、国人(こくじん)と交わりては信に止まる。(仮名大学8頁)
詩経には、「深遠な風格のある文王は、ああ、いつも明るくて、威張らずに人を敬うことに止まっていた。」という言葉がある。
文王のように、君主となれば仁に止まり、臣下となれば敬に止まり、子となれば孝に止まり、父となれば慈に止まり、国人と交われば信に止まるのが良いのである。
 
 
だが「子どもに愛情を注ぐこと」は、
「子どもを甘やかすこと」ではない。
「愛」について次のような章句があるからである。(つづく