微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

親民か新民か?(上から目線はやめてほしい)

前回(http://blogs.yahoo.co.jp/rihito141/7555859.html)からの続きでもあります。
前回は、嫌われてしまっては、伝えたいことも伝わらないようなことを書きました。

残念なことですが、
論語に詳しい人の中には、
上から目線な態度で偉そうにしていて、嫌われてしまっている人がいるのが事実です。

その原因の一端は、朱子が作ってしまった、
ある問題点への理解不足にあるように思います。

 
朱子は、大学と中庸を礼記の中から抽出し、論語孟子と合わせて四書としました。
今日、私たちが大学と中庸を読めるのは、朱子のおかげと言えます。
まことに有り難いことであります。
 
四書のうち大学は、曽子が作ったとされます。
曽子は孔子の愛弟子です。
大学の最初には、要点が3つ(三綱領という)挙げられています。
 

大学の道は、明徳めいとく)を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善(しぜん)に止(とど)まるに在り。(仮名大学1頁)
大人となるための学問の道は、明徳(生まれながら与えられている徳)を発揮するところにある。広く多くの人と相親しむところにある。至善(最高の善)に止まるところにある。
 

問題点は、この三綱領の2番目にあります。
朱子は「親」を「新」と読み替えてしまったのでした。
その理由は、次の一節が「民に親しむ」の説明に当たると思われるからです。
 

(とう)の盤(ばん)の銘(めい)に曰わく、苟(まこと)に日(ひ)に新(あら)た日日(ひび)に新たに、又(また)(ひ)に新たならんと。
康誥
(こうこう)に曰わく、新たにする民を作(おこ)すと。
詩に曰わく、周は旧邦なりと雖
(いえど)も、其(そ)の命(めい)(こ)れ新たなりと。
(こ)の故(ゆえ)に、君子は其の極(きょく)を用いざる所無し。(仮名大学6・7頁)
殷王朝の初代・湯王が使っていた洗面器には、「本当に毎日、自己を新鮮にして停滞することがないように」という言葉が刻まれていた。
康誥(書経の一篇)には、「自分から進んで物事を刷新できるような民を育成する」という言葉がある。
詩経には、「周王朝は古い伝統ある国であるが、その原動力はいつも新鮮である」という言葉がある。
これゆえに、為政者は、極端な方策を用いる必要がなかったのである。
 

このように、
「親」ではなく「新」がテーマになっているので、
なるほどたしかに、「民に親しむ」でななく「民を新たにする」が正しいように思われます。
 
しかし、
「民を新たにする」とは、いかにも上から目線で偉そうです。
反発したくなってしまいます。
論語を読まれている方の中に、たまに偉そうな態度を取る人がいるのは、
この上から目線が原因となっているではないでしょうか。
論語が敬遠されてしまう一因でもあります。困ったものです…。

そこでやはり、
「親」を「新」と読み替えず、
そのまま「親」として、「民に親しむ」と読むべきと思います。
「人々と親しみ仲良くする」と解するべきです。
 
おそらく、
曽子も「新」を使いたかったところを、
上のような弊害を考慮して、あえて「親」を使ったのではないでしょうか。

 
ちなみに、
「親」は、孔子が最も重視した「仁」につながります。
「仁」は、「人+二」で構成され、二人が対等に相親しむことを示しています(漢字源)。
大学を作った曽子が孔子の愛弟子である以上、
やはり「親」を「新」とせず、そのまま「親」とするべきなのです。

このように、
論語を実践しようとする際は、
「民に親しむ」ことを旨とする必要があるのです。
このあたりにも、
大学が論語より前に読むべきものとされた理由があるように思います。
(関連記事
http://blogs.yahoo.co.jp/rihito141/6599401.html