微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

「礼」は「仁」の形

前回からの続き)
 

「礼」とは、
「仁を形にしたもの」と考えて良いと思う。
 
 
子曰わく、人にして仁ならずんば、礼を如何にせん。人にして仁ならずんば、楽を如何にせん。(八佾第三・仮名論語24頁)
孔子先生が言われました。
「人に仁の心が無ければ、何のための礼なのだろうか。人に仁の心が無ければ、何のための音楽なのだろうか(礼を行うにも音楽を奏でるにも、真心を込める)」
 

子夏問うて曰わく、巧笑たり、美目たり、素て絢を為すとは、何の言いぞや。子曰わく、絵の事は素きを後にす。曰わく、礼は後か。子曰わく、予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ。(八佾第三・仮名論語26頁)
子夏が尋ねました。
「『笑えば笑窪が愛くるしく、眼はぱっちりと澄んで、お白粉で化粧をする』という詩がありますが、何か深い意味があるのでしょうか」
孔子先生が言われました。
「絵の描き方のことだろう。最後は白の絵具で仕上げるということだよ」
子夏はさらに尋ねました。
「では、人間で言えば、最後の仕上げは『礼』ということになりましょうか」
孔子先生が言われました。
「私の気づかなかった事を教えてくれたのは商(子夏の名)、お前だね。はじめて共に詩を語り合えるようになったなぁ」
 
 
子曰わく、礼と云い礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや。(陽貨第十七・仮名論語269頁)
孔子先生が言われました。
儀礼儀礼だといっても、単に玉や絹の飾り物をいうのだろうか?音楽だ音楽だといっても、単に鐘や太鼓の楽器をいうのだろうか?」

 
では仁とは何か?(つづく