微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

日・中・韓 論語の読み方に隔たり

明治18年(1885年)の今日(3月16日)、
時事新報という当時の新聞に脱亜論が発表された。
執筆者は福沢諭吉とされる。
ウィキペディアより)
 

この脱亜論の中に次のような一文がある。
 

『我日本ノ國土ハ亞細亞ノ東邊ニ在リト雖ドモ其國民ノ精神ハ既ニ亞細亞ノ固陋ヲ脫シテ西洋ノ文明ニ移リタリ然ルニ爰ニ不幸ナルハ近隣ニ國アリ一ヲ支那ト云ヒ一ヲ朝鮮ト云フ此二國ノ人民モ古來亞細亞流ノ政敎風俗ニ養ハルヽヿ我日本國ニ異ナラズ
(中略)
此二國ノ者共ハ(中略)仁義禮智ト稱シ一ヨリ十ニ至ルマデ外見ノ虚飾ノミヲ事トシテ其實際ニ於テハ眞理原則ノ知見ナキノミカ道徳サヘ地ヲ拂フテ殘刻不廉耻ヲ極メ尚傲然トシテ自省ノ念ナキ者ノ如シ』
http://ja.wikisource.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96
(わが日本の国土はアジアの東辺にあるとはいえ、その国民精神はすでにアジアの固陋を脱して西洋文明に移っている。ただ不幸なのは、近隣に二つの国があることである。一つは中国といい、もう一つは朝鮮という。この二国の国民も古来よりアジアの政教風俗に養われたことは日本と異なるところはない。
ただこの二国の者共は、仁義礼智と称し一から十まで外見の虚飾に努め、その実際においては真理原則に対する見識はなく、道徳さえ地を払って残酷・不廉恥を極め、それでもなお傲り高ぶっていて自ら反省する観念のない者のようである。)
 
 
100年以上前に書かれた論説なのに、
今の日本と中国・朝鮮半島との関係に
そっくりそのまま当てはまるような一文に驚かされる。
 
 
この論説にある「古來亞細亞流ノ政敎風俗」とは、
論語を中心とした経典であるように思われる。

論語は中国で生まれ、
朝鮮半島を経由して日本にもたらされた。

日本も中国・朝鮮半島も同じ論語を読んでいたのである。
それなのに何故、日本と中国・朝鮮との間には
このような大きな差異が生じたのであろうか。(つづく
 
 
子曰わく、其(そ)の以(な)す所を視(み)、其の由(よ)る所を観(み)、其の安んずる所を察(み)れば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。人焉んぞ廋さんや。(為政第二・仮名論語16頁)
孔子先生が言われました。
「その人の行いをみる。その行いの由来する所をみる。そして、その行いに満足しているかを観察する。そうすれば、その人の人柄はどうして隠せるだろうか、その人の人柄はどうして隠せるだろうか。」