微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

日・中・韓 論語の読み方に隔たり2

日本も中国・朝鮮半島も同じ論語を読んでいた。
それなのに何故、日本と中国・朝鮮との間には
このような大きな差異が生じたのであろうか。
 

それは、
論語の読み方が全く違うからである。

中国・朝鮮半島では、
論語科挙に合格するために読むものであった。
しかも、
そこで問われた内容は孔子の本来の教えではなく、
権力者のために都合良く解釈・ねじ曲げられた儒教であった。
 

そもそも論語を試験の科目とすること自体、
孔子の本来の教えに反している。
 
 
子曰わく、古(いにしえ)の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四・仮名論語214頁)
孔子先生が言われました。
「昔、学に志す者は自分の修養のために学んでいた。しかし今、学に志す者は、人に知られるために学んでいる。」
 
 
これに対し日本では、
論語は主に武士たちによって読まれた。
武士としてのあり方を孔子本来の教えに求めたからである。
欧州においてキリスト教が騎士道の基盤となったように、
日本では孔子本来の教えが武士道の基盤となったのだった
(関連記事「論語=日本人の道徳)。
 

このように論語は、
中国・朝鮮半島では試験のために読まれ、
日本では武士たちの道徳として読まれた。
 
このような論語の読み方の習慣の違いのために、
中国・朝鮮半島と日本との間には、
道徳に大きな差が生じてしまったのである。
 
 
子曰わく、性(せい)、相(あい)近きなり。習(ならい)、相遠きなり。(陽貨第十七・仮名論語262頁)
孔子先生が言われました。
「人の生まれつきは、誰も似たものなのだが、習慣によって大きく違ってくるのだよ」
 
 
前回からの続き)