微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

孔子の奥義(論語は誰が作ったか?4)

前回からの続き)
そのため、孔子は子貢には語らなかった次のことを
曽子には語ったと考えることができる。
 
 
子貢曰わく、(中略)夫子の性と天道と言うは、得て聞くべからざるなり。(公冶長第五・仮名論語55頁)
弟子の子貢が言いました。
孔子先生の『人間の徳性や天の道理』についてのお話しは、聞くことができなかった。」
 

この章句にある「」「」「」といえば、
中庸の最初の言葉が思い出される。

 
天の命ずる之(これ)を性と言い、性に率(したが)う之を道と言い、道を修むる之を教えと言うなり。(第一章・仮名中庸1頁)
天は人それぞれに個性・特性を命じている。その個性・特性にしたがい、それを活かしてゆくことを人としての道という。そして、その道を整えるために先覚が残したものを教えというのである。
 

中庸は孔子の孫・子思が書いたとされる。
子思は曽子に弟子入りした。
このことは孔子自身が望んでいた可能性がある。
 

曽子曰わく、以(もっ)て六尺の孤を託すべく(中略)、君子人(くんしじん)か、君子人なり。(泰伯第八・仮名論語101頁)
曽先生が言われました。
「安心して幼い遺児を託することができる人を君子人というのであろうか。君子人であろう。」
 

子思の父で孔子の長男・孔鯉は、
孔子が69歳の時にすでに亡くなっていた(「孔子家語」)。
そのため、子思は孔子が亡くなる時は「六尺の孤(幼い遺児)」であったのだった。
 
 
以上のように見て行けば、
曽子が孔子の真意を最もよく受け継いでいた弟子である、
と考えることができるように思う。
 
孔子の真意を受け継いだ曽子の弟子たちだったからこそ、
論語を作ることができたのである。
(おわり)
 
[伊與田覺先生著「論語に生き論語を活かす」(論語普及会)、同「中庸に学ぶ」(致知出版社)を参考にしています]