(前回からの続き)
その理由は次の通り。
論語には数多くの弟子たちが登場するが、
曽参は曽子として「子」という敬称を付けられて登場しているからである。
もちろん曽子の他にも、「子」という敬称を付けられて登場する弟子たちはいる。
有子(有若)や冉子(冉有=冉求)などである。
しかし、曽子の言葉は彼らの言葉と比べても圧倒的に多く収録されている。
しかも、曽子が亡くなる間際の言葉も収録されているのである。
そのうちの一つが次の章句である。
曽子、疾有り。門弟子を召して曰わく、予(わ)が足を啓け、予が手を啓け。詩に言う、戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)として深淵に望むが如く、薄氷を履むが如しと。而今(いま)よりして後、吾(われ)免(まぬが)るるを知るかな、小子。(泰伯第八・仮名論語99頁)
曽先生が病に伏し、弟子たちを集めて言いました。
「私の手や足を出して見てごらん。詩経に『恐れおののいて深い淵を見下ろすように、薄い氷の上を歩くかのように』とあるように、私は父母から頂いたこの体に傷一つ付けないように生きてきた。でも、これからはもうそんな気を遣う必要がなくなるのだよ、みんな。」
曽先生が病に伏し、弟子たちを集めて言いました。
「私の手や足を出して見てごらん。詩経に『恐れおののいて深い淵を見下ろすように、薄い氷の上を歩くかのように』とあるように、私は父母から頂いたこの体に傷一つ付けないように生きてきた。でも、これからはもうそんな気を遣う必要がなくなるのだよ、みんな。」
するとまた次のような疑問が生じる。