微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

体罰でない本物の指導

本物の指導とは、
選手が本来持っている力を発揮させる工夫をすることであるように思う。
 

子曰わく、之(これ)を如何(いかん)、之を如何と曰(い)わざる者は、吾(われ)之を如何ともする末(な)きのみ。(衛霊公第十五・仮名論語234頁)
孔子先生が言われました。
「これをどうしよう、これをどうしよう、と自分で考えるような者でなければ、私にはどうしようもできない。」
 
 
詩に云(い)わく、予(われ)明徳を懐(おも)う、声と色を以(もっ)て大とせずと。子曰わく、声と色を以て民を化するに於(お)けるは末なりと。(中庸第三十三章・仮名中庸85頁)
詩経には、「私は天から与えられた徳を修めそれを発揮させることを思うのみで、声を大にしたり顔色を激しくしたりすることはない」という言葉がある。この言葉は、孔子先生が「声を大にしたり顔色を激しくして人々を感化するのは、本当の感化ではない」と仰ったことと同じ意味である。
 
 
暴力に頼る指導者は、自分が指導者の器でないことを自覚すべきである。
 
 
子曰わく、君子は能無きを病(うれ)う。人の己を知らざるを病(うれえ)ず。(衛霊公第十五・仮名論語235頁)
孔子先生が言われました。
「君子は自分に能力がないことを気にする。自分が人に知られないことは気にしないものだよ。」
 
 
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