微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

照らすべき一隅

『 中国の春秋時代、魏の恵王が斉の威王に次のように語りかけました。
  「私の国は小国ですが、他国にはない立派な宝物があります。直径一寸ほどの強い光を放つ珠で、車の 前後およそ十二乗分までも照らすものが十枚あります。
  貴国はいかがですか。大国ですので、さぞかし立派な宝をたくさんお持ちでしょう。」
  威王は答えました。
  「私の国にはそういうものはありません。しかし優れた家来が多くおります。
 ある者に南城の地を守らせたところ、南隣りの楚は恐れて攻め入ろうとしません。またある者に高唐の地を 守らせたところ、西隣りの趙人は東境の黄河で魚を獲ることをしなくなりました。
  こうした優れた家来たちが自分の持ち場で一隅を照らし、国を支えてくれています。これが私の宝です。」
  恵王はこれを聞いて大いに恥じ入ったといいます。』
致知2月号「巻頭の言葉」より一部抜粋・要約しました)
 
 
このお話を読んで考えた。
このブログは、一隅を照らしているだろうか、と。
 
論語ブームとはいえ、
論語を現実離れした古めかしいものと誤解している人がほとんど。
論語をまともに読んだこともないのに……。
一人でも多くの人がこの誤解を解いてくれれば。
一人でも多くの人が論語を通読するようになってくれれば。
そして一人でも多くの人が論語を現実に生かしてくれれば。
このブログが照らすべき一隅は、そこにあるのではないだろうか。

子曰わく、学びて時に之を習う、亦(また)(よろこ)ばしからずや。朋遠方より来る有り、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。(学而第一・仮名論語1頁)
孔子先生が言われました。
「学んだことを時に応じて実践するのは、なんと喜ばしいことではないか。同じ道を学ぶ友が遠方から来てくれるのは、なんと楽しいことではないか。自分のことを人に知られなくても、怨むことなく自分の為すべきことを努めてやまない人は、なんと立派な人物ではないか。」