しかし私は、
一部抜粋・要約します。
『中国では漢の武帝が孔子の教えを国教にしようとしました。(中略)孔子の第12代目の子孫・孔安国という人を博士として招いて儒学で国を治めていこうと考えるわけです。
日本もそうですけれども、戦争で国を統一した後、一番難しいのは、戦が強い人間ではなく文官、役人によって治められるようにもっていくことです。いわゆる武断政治から文治政治ににしなくてはいけない。これが失敗すると政治はうまくいかなくなります。
徳川幕府は藤原惺窩などの儒者を呼んで時間をかけながら武断派を抑え、有能な官僚を育てていきました。徳川幕府は武断政治から文治政治にうまく移行できたからこそ、200年以上の歴史を保ったわけですけれども、漢の武帝もこれと同じようなことをやろうとしたんですね。
それで孔安国を招いたわけですが、儒家が寂れていたところに急に博士に採用されたわけですから、孔安国はきっと、これはどうにかして先祖である孔子の教えを盛り立てなければならないと考えたに違いありません。
孔子本来の教えは権力者にとって都合の悪いこともいろいろ書いてあります。ですから孔安国は、権力者に都合の良いように論語の文章(孔子の言葉)を書き換えていきました。(中略)孔安国は孔子本来の教えを権力者の都合のよいようにどんどん変えていったんです。その後も、孔子の言葉は権力者の都合で変えられるようになりました。それがいわゆる儒教なんですね。ですからもともとの孔子の教えと儒教は大きく違います。』
日本もそうですけれども、戦争で国を統一した後、一番難しいのは、戦が強い人間ではなく文官、役人によって治められるようにもっていくことです。いわゆる武断政治から文治政治ににしなくてはいけない。これが失敗すると政治はうまくいかなくなります。
徳川幕府は藤原惺窩などの儒者を呼んで時間をかけながら武断派を抑え、有能な官僚を育てていきました。徳川幕府は武断政治から文治政治にうまく移行できたからこそ、200年以上の歴史を保ったわけですけれども、漢の武帝もこれと同じようなことをやろうとしたんですね。
それで孔安国を招いたわけですが、儒家が寂れていたところに急に博士に採用されたわけですから、孔安国はきっと、これはどうにかして先祖である孔子の教えを盛り立てなければならないと考えたに違いありません。
孔子本来の教えは権力者にとって都合の悪いこともいろいろ書いてあります。ですから孔安国は、権力者に都合の良いように論語の文章(孔子の言葉)を書き換えていきました。(中略)孔安国は孔子本来の教えを権力者の都合のよいようにどんどん変えていったんです。その後も、孔子の言葉は権力者の都合で変えられるようになりました。それがいわゆる儒教なんですね。ですからもともとの孔子の教えと儒教は大きく違います。』
論語の章句は一つ一つが短く抽象的です。
そのため、解釈の幅は当然広いです。
権力者に都合の良い解釈もできてしまうのです。
今の時代は、誰でも手軽に論語を読むことができます。
都合の良い解釈をしていれば、すぐに批判可能な時代なのです。
孔子本来の教えを広めることができる時代にあるのかも知れません。