微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

子夏(論語、学而第一⑦)

子夏は孔子より44歳若い弟子。

やはり
孔子の教えを代弁すると
思わせるような良い言葉が掲載されている。


子夏曰わく、賢を賢として色に易え、父母に事えて能く其の力を竭し、君に事えて能く其の身を致し、朋友と交るに言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾は必ず之を学びたりと言わん。(学而第一・仮名論語4頁)
子夏が言いました。
「女性の美しさを好むよりも賢人の道を好み、父母には全力で孝を尽くし、君主にはその身を正しくしてお仕えし、友人には誠をもって交流する。このような人がまだ学んでいないと言ったとしても、私は必ず学んでいると言うだろう」


子夏問うて曰わく、巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは、何の言いぞや。子曰わく、絵の事は素きを後にす。曰わく、礼は後か。子曰わく、予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ。(八佾第三・仮名論語26頁)
子夏が尋ねました。
「『笑えば笑窪が愛くるしく、眼はぱっちりと澄んで、お白粉で化粧をする』という詩がありますが、何か深い意味があるのでしょうか?」
孔子先生が言われました。
「絵の描き方のことだろう。最後は白の絵具で仕上げるということだよ」
子夏はさらに尋ねました。
「では、人間で言えば、最後の仕上げは『礼』ということになりましょうか?」
孔子先生が言われました。
「私の気づかなかった事を教えてくれたのは商(子夏の名)、お前だね。はじめて詩を語り合えるようになったね」


司馬牛、憂えて曰わく、人は皆兄弟有り、我独り亡し。子夏曰わく、商之を聞く、死生命有り、富貴天に在り。君子は敬みて失うこと無く、人と与るに恭しくして礼有らば、四海の内、皆兄弟なり。君子何ぞ兄弟無きを患えんや。(顔淵第十二・仮名論語164頁)
司馬牛が悲しみ嘆いて言いました。
「みな兄弟がいるのに私にはいない…」
そんな司馬牛に子夏が言いました。
「私は『人の生死や富貴は全て天命』と聞いている。君子は、敬意を忘れることなく、謙虚に礼をもって人と交われば、世の中の人はみな兄弟になる。君子は、兄弟がいないことなど気にする必要無いのだ」


子游曰わく、子夏の門人小子、洒掃応対進退に当たりては則ち可なり。抑末なり。之に本づくれば則ち無し。之を如何。子夏之を聞きて曰わく、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先に伝え、孰れをか後に倦まん。諸を草木の区して以て別つに譬う。君子の道は焉んぞ誣うべけんや。始有り卒有る者は、其れ唯聖人か。(子張第十九・仮名論語296頁)
子游が言いました。
「子夏の弟子たちは、掃除や応対、進退については結構だが、そういったものは枝葉末節だ。根本的な部分は何も無い。これで良いのだろうか?」
子夏がこれを聞いて言いました。
「ああ子游は間違っている。君子の道を伝えるのに順序は無い。草木も種類によって育て方が違うように、伝える順序も人によって違って良いのだ。君子の道を個性を無視して押しつけるように伝えても良いのだろうか?君子の道の始めも終わりもある者は、ただ聖人だけだろう」