人間であれば
誰だって間違いはある。
大事なのはすぐに改める
ということなのだろう。
子曰わく、君子、重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし己に如かざる者を友とする無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。(学而第一・仮名論語4頁)
孔子先生が言われました。
「君子は、(発言や行動を)重々しくしないと威信がなくなる。(人としての道を)学べば頑固でなくなる。忠信を第一とし、自分と同じように忠信を第一としていない者を友としてはならない。そして自分が間違っていると思ったら、それを改めるのに遠慮してはならないのだよ」
孔子先生が言われました。
「君子は、(発言や行動を)重々しくしないと威信がなくなる。(人としての道を)学べば頑固でなくなる。忠信を第一とし、自分と同じように忠信を第一としていない者を友としてはならない。そして自分が間違っていると思ったら、それを改めるのに遠慮してはならないのだよ」
間違えた人が訂正するのを
遠慮するなということは、
訂正される方は
寛容に許す度量をもて
ということかもしれない。
ただ、
間違えた方はその寛容さに
甘んじてはならない。
同じ間違えを
繰り返えさないよう心がけ、
さらには
間違え自体を少なくしようと
心がけねばならないと思う。
哀公問う、弟子、誰か学を好むと為す。孔子対えて曰わく、顔回なる者有り、学を好めり。怒りを遷さず、過を弍たびせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。(雍也第六・仮名論語66頁)
哀公(魯国の君主)が「弟子の中で本当に学を好む者は誰か」と尋ねられました。
孔子先生は答えられました。
「顔回という者がおりました。彼は怒ったときでも、その怒りを関係のない者にまでうつすようなことはしませんでした。同じ過ちを繰り返すようなこともしませんでした。しかし、不幸にも若くして死んでしまい、もうこの世にはおりません。それからは、本当に学を好む者はいないようでございます」
哀公(魯国の君主)が「弟子の中で本当に学を好む者は誰か」と尋ねられました。
孔子先生は答えられました。
「顔回という者がおりました。彼は怒ったときでも、その怒りを関係のない者にまでうつすようなことはしませんでした。同じ過ちを繰り返すようなこともしませんでした。しかし、不幸にも若くして死んでしまい、もうこの世にはおりません。それからは、本当に学を好む者はいないようでございます」