微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

聖人と君子は違う

聖人と君子は違う。


聖人は神の領域。

それに対し君子は
あくまで人間の領域にとどまる。


子游曰わく、子夏の門人小子、洒掃応対進退に当たりては則ち可なり。抑なり。之に本づくれば則ち無し。之を如何。子夏之を聞きて曰わく、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先に伝え、孰れをか後に倦まん。諸を草木の区して以て別つに譬う。君子の道は焉んぞ誣うべけんや。始有り卒有る者は、其れ唯聖人か。(子張第十九・仮名論語296頁)
子游が言いました。
「子夏の弟子たちは、掃除や応対、進退については結構だが、そういったものは枝葉末節だ。根本的な部分は何も無い。これで良いのだろうか?」
子夏がこれを聞いて言いました。
「ああ子游は間違っている。君子の道を伝えるのに順序は無い。草木も種類によって育て方が違うように、伝える順序も人によって違って良いのだ。君子の道を個性を無視して押しつけるように伝えても良いのだろうか?君子の道の始めも終わりもある者は、ただ聖人だけだろう」


子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば如何。仁と言うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と言うべきのみ。(雍也第六・仮名論語79頁)
子貢が尋ねました。
「もし広く民衆に施しをして民衆を救う者がいたとすれば、どうでしょうか?仁者というべきでしょうか?」
孔子先生が答えられました。
者どころではない。それはもう聖人だろう。堯舜(古代中国の伝説上の帝王)でさえそれが難しいがために常に心を痛めておられた。仁者とは、自分が立とうと思えば先に人を立て、自分が達しようと思えば先に人を達させるように、日々の身近なところで行う人のことを言う。これが仁を実践する手近な方法だろう」