微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

三省(論語、学而第一④)

「三」は何度も。

「省」は反省だけでなく、
不善を省くと解釈するべきである。


曽子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。(学而第一・仮名論語2頁)
曽先生が言いました。
「私は、自分自身を何度も省みて、不善を省くようにしている。たとえば、人からの相談ごとに誠心誠意応対したかどうか、友だちに嘘や偽りを言わなかったかどうか、そしてまだ習得できていないことを人に教えてしまわなかったかどうか」


子曰わく、徳の修まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徒る能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂なり。(述而第七・仮名論語80頁)
孔子先生が言われました。
「徳が身につかないこと、学問が究められないこと、正しい道を聞いても行うことができないこと、不善を改めることができないこと。この四つが私の心を痛めている」


子曰わく、三人行えば、必ず我が師有り。其の善き者を択びて之に従い、其の善からざる者にして之を改む。(述而第七・仮名論語88頁)
孔子先生が言われました。
「三人の人がいれば、必ず先生になる人がいる。三人の内、善き行いをする人を選んで従い、不善をする人を見ては自分はどうかと反省して改める」


孔子曰わく、善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす。吾其の人を見る、吾其の語を聞く。隠居して以て其の志を求め、義を行いて以て其の道を達す。吾其の語を聞く、未だ其の人を見ざるなり。(季氏第十六・仮名論語256頁)
孔子先生が言われました。
「善を見れば自分はまだまだ及んでいないと謙虚に学び、不善を見れば熱湯に手を入れた時のようにすぐ改める。私はそのような人を見たことがあるし、そのような言葉を聞いたことがある。家に隠れていても志を求め、義を行ってその道に達する。私はそのような言葉を聞いたことがあるが、そのような人を見たことはない」