微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

日本資本主義の父 渋沢栄一、再評価の機運

【日本資本主義の父 渋沢栄一、再評価の機運
拝金主義を反省 論語解釈に脚光】
という記事が10月8日の日経朝刊文化欄にありました。
一部を引用します。
『従来の儒教的観念では金もうけは卑しいことと見られてきた。
しかし、渋沢の解釈では、孔子は「まっとうな生き方によって得られるならば、
どんな仕事についていても金もうけをせよ」と言っていると断言した。
渋沢はまた「論語講義」で、利は「自己のみに偏せず、公利を害せぬやうに心掛け、
道理に照らし義に従うて事を行へば他より怨(うら)まるるはずなし」
と道徳に基づいた経済活動を説いている。』
 
これを機会に、論語の中の利得や富貴に関する章句をまとめたいと思います。
 
子曰わく、利に放(よ)りて行えば、怨(うらみ)多し。
(里仁第四・仮名論語42頁)
孔子先生が言われました。
「自分の利益のみを考えて行動すれば人に怨まれることが多いよ。」
 
子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。
(里仁第四・仮名論語43頁)
孔子先生が言われました。
「君子は正しいことか否かで判断するが、小人は損得で判断するよ。」
 
子曰わく、(中略)不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。
(述而第七・仮名論語86頁)
孔子先生が言われました。
「不義を行って富みや地位を得ても、自分には浮雲のようなものだ。」
 
子曰わく、(中略)邦(くに)道有るに、貧しくして且つ賤(いや)しきは恥なり。
邦道無きに、富み且つ貴きは恥なり。
(泰伯第八・仮名論語105頁)
孔子先生が言われました。
「邦に道が行われているのに、貧しくて地位が低いのは恥だよ。邦に道が行われていないのに富みや地位を得ているのは恥だよ。」
 
子罕(まれ)に利を言う、命とともにし、仁とともにす。
(子罕第九・仮名論語110頁)
孔子先生はまれに利得について言われた。その時は必ず天命や仁に照らし合わせて話された。
 
子曰わく、貧しくして怨む無きは難く、富みて驕る無きは易し。
(憲問第十四・仮名論語205頁)
孔子先生が言われました。
「貧しくても怨みがましくならないのは難しいことだが、
富みを得ておごりたかぶることがないようにするのは容易なことだよ。」
 
子路、成人を問う。子曰わく、(中略)利を見ては義を思い、(中略)亦以て成人と為すべし。
(憲問第十四・仮名論語207頁)
弟子の子路が成人の資格について尋ねました。
孔子先生は答えられました。
「利益を得るに当たっては道義にかなっているか考える。これができれば成人と言えるよ。」
 
子曰わく、君子に九思(きゅうし)有り。(中略)得るを見ては義を思う。
 (季氏第十六・仮名論語255頁)
孔子先生が言われました。
「君子には九つ思うことがあるよ。
その一つが利得を前にしたときは義にかなっているか考えることだよ。」
 
こうしてみると、論語は利益や富貴を得ることを否定しているのではない、と分かります。
「従来の儒教的観念では金もうけは卑しいことと見られてきた」とあるのは、
江戸時代に幕府が商人を士農工商の最下位に置いたため、と考えます。
それに論語の学者の中に金儲けの才能がある人などいなかったでしょう。
金儲けの才能があれば普通は論語の研究などしようと思わないでしょうし。
このようなことで、「金儲けは卑しい」とされたのだと考えます。
 
論語の章句に素直になれば、金儲けそれ自体は否定されるものではなく、
道義にかなっていれば良い、ということになろうかと思います。
渋沢栄一先生は、武士の高い道義感を持ちつつ
商売の才能を磨き、
論語の素直な解釈とその実践をされた先駆者であり第一人者なのです。