微庵の論語メモ

現代語訳は可能な限り原文に忠実に、かつ分かり易くを心がけております。

声を出して読むことに何の意味があるのか

江戸時代の各藩は、教育を重んじ、競うかのように学校(藩校)をつくりました。
また、多くの寺子屋が江戸で千、全国では万を超えて存在したと言われます。
 

そうした藩校や寺子屋では、論語の「素読」が行われていたようです。
 

素読とは、
「文章の意味はさておいて、文字だけを声に出して読むこと」です。
単なる棒暗記としか思えないかも知れません。
こんな暗記教育が何のためになるのか、不思議に思われるかも知れません。
 

しかし、明治維新を成し遂げ西洋列強と渡り合ったのは、
こうした教育しか受けたことのない若者たちでした。
当時全くなじみの無かった西洋の知識を見事に吸収・消化したのも、
こうした教育しか受けたことのない若者たちでした。
 

また、最近の研究では、素読が脳を活性化することも分かってきているようです。(関連記事
 
 
仮名論語・仮名大学の著者・伊與田覺先生も仰っています。
 

『古典を学ぶ上に於いて大切なことは「素読」です。
素読は天命に通ずる先覚の書を、自分の目と口と耳とそして皮膚を同時に働かせて吸収するのです。これを読書百遍で繰り返し繰り返し続けることによって、自ずから自分の血となり肉となるのです。
それが時あって外に滲み出ると風韻になり、そういう人格を風格ともいうのです。』
(「『大学』を素読する」のまえがきより)
 
 
 
論語には、「君子」という単語が出てきます。
孔子も君子が何であるか、明確に定義していません。
解説書等では、分かり易く、「立派な人」と解説されることが多いです。
しかし、詳しく言えば「君子」とはおそらく、
天命に通ずる先覚の書を自分の血肉とし、
それを滲み出している人のことを言うような気がしてきました。
 
 
子曰わく、故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師と為るべし。(為政第二・仮名論語16頁)
孔子先生は言われました。
「昔の物事を研究・吟味して、そこから新しい知識や見解を得る。そういうことができる人こそ、師となるにふさわしい。」
 

子曰わく、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。竊(ひそか)に我が老彭(ろうほう)に比す。(述而第七・仮名論語80頁)
孔子先生が言われました。
「私はいにしえの聖人の道を述べているだけで創作はしていない。それを信じて好んでいるのだ。ひそかに、私が尊敬する老彭(殷の賢大夫)になぞらえているのだよ。」